雑記

あの子の水筒、いまも胸に残る

朝の通勤途中、近所の公園を通りかかったときだった。色とりどりの帽子をかぶった小学生たちが、先生のかけ声にあわせて二列に並びながら歩いていた。「こっちこっちー!」「○○小の○年生の子たちはここねー!」そんな声に混じって、子どもたちのにぎやかな笑い声が、公園の風にまじって流れてきた。

リュックを背負って、水筒を肩からかけて、浮かれたような足取りで歩くその姿を見た瞬間、ふいに、あのときのことを思い出した。たしか、小学三年生だった。社会科見学で、みんなでバスに乗って行ったあの日のこと。目的地は忘れてしまったけど、お昼にみんなで広場にシートを敷いてお弁当を食べたことは、なぜか今でもはっきり覚えている。

クラスごとに円になって座り、それぞれのお弁当を広げて、好きな友達とわいわい食べるのが楽しかった。たまご焼きが甘かったとか、ウインナーのタコがうまく足を広げてなかったとか、そんなことを笑いながら話していた。昼休憩が終わると、先生が声をかけ、グループごとに移動を始めた。ところがそのとき、ひとりの男の子がまだ片づけを終えていなかった。

別のクラスの子だったけれど、なんとなく視界の端で気づいた。彼はまだ弁当箱や水筒をリュックにしまっている途中で、みんなが立ち上がり、列をつくり始めたのに焦ったように動いていた。そして、みんなが移動を始めたその列の最後尾を、彼は荷物を抱えながら追いかけていった。

その子の手には、水筒と弁当箱、そしておしぼりの袋まで全部まとめて抱えていた。でもうまく収まっていなかったのだろう。歩きながらポロリ、また拾い上げてポロリ。おそらくは新しく買ってもらったばかりの、お気に入りの水筒だったんだろう。キラキラした銀色にキャラクターのシールが貼ってあって、その姿が今でも頭にこびりついている。

僕は、自分のクラスの列に並びながら、その子の後ろ姿を見ていた。気づけば一人、クラスとはぐれそうになっている。何度もしゃがんでは拾って、また抱えなおして、また歩いて。声をかけようと思った。でも、声をかけられなかった。別のクラスだったし、僕も移動しなきゃいけなかったし、先生たちの目もあるし――そんな言い訳をいくつも思い浮かべながら、結局、ただ見ていただけだった。

あとになって、すごく後悔した。なぜ声をかけなかったんだろう。なぜ、一緒に拾ってあげなかったんだろう。誰かが気づいていたら、先生がもう少し見てくれていたら、なんて、他人のせいにしたくなったけれど、本当は、僕があと一歩だけ動けていたらよかったんだと思う。

それから何十年も経った今でも、その子のことをふと思い出す。大人になって、いろんな人と出会って、いろんな出来事を経験してきたはずなのに、なぜあのときの後悔だけが、こんなにもはっきりと胸に残っているのだろう。

たぶん、それは「やさしさ」というものに、初めて真正面から向き合い損ねた経験だったからだと思う。やさしさは時に勇気とセットだ。ほんの少しの勇気が出せなかったばかりに、僕はひとつのやさしさを誰かに届け損ねた。

あの子は、もうきっと大人になっているはずだ。どこかで家庭を持っているかもしれないし、もしかしたら今、誰かの子どもを社会科見学に送り出しているかもしれない。そんな未来の中に、あのとき落としながら走っていた水筒のことなんて、たぶん本人はもう覚えていないだろう。

でも、僕は覚えている。あの日の風の匂いと、地面にカンと当たった水筒の音と、その子の必死な顔を。だからこそ、今の僕は、小さなやさしさを見逃さないように心がけている。誰かの水筒が落ちそうなとき、すぐに手を伸ばせる自分でいたい。あの日、手を伸ばせなかった自分を、少しでも取り戻すために。

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